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に笠原水道を完成させた。日本国で第18番目となる水道であった。笠原水道は笠原不動谷を水源とし、約10キロメートル導水して下市に給水した。他藩の水道は明渠であったが、笠原水道では暗渠を採用した点に特色がある。 茂衛門・勘衛門は上記施設の他にも江堰・溜池を多く築いた。堰としては、那珂川に赤沢堰、久慈川に
を受け、6万8000石で伊予国西条藩に転封となった。これにより同地は幕府領となり、神戸城も主要な建築物は破却された。 慶安4年(1651年)、近江国膳所藩主・石川忠総の次男・石川総長が、忠総の遺領のうち神戸周辺の1万石を分与されたため、神戸藩が再興した。総長は万治3年(1660年)に大坂定番となり、
南部信民、1000石の削減と隠退を命じられる。南部信方、家督を継ぐ。 1869年(明治2年)正月 - 明治政府が南部信民の遺領10000石を南部信方に改めて下賜する。 1869年(明治2年) - 版籍奉還により南部信方が藩知事となる。 1870年(明治3年)閏10月 - 七戸通惣百姓一揆。 1871年(明治4年)
盛岡藩も参照。 領内の行政区分は盛岡藩と同様に通制を用い、勘定頭が代官を指揮して民政の当たる。各区域には各2名ずつ代官が置かれていたが、領外(飛地)の志和については4名に増員された。 八戸城 柳間 (安政2年(1855年)以前) 大広間 (安政2年以降)