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地頭分村・山北村]、赤坂村[早戸村・赤坂村]、神村、本郷村、東村(現・福山市) 西村、高須村、山波村(現・尾道市) 今津村、松永村、柳津村、金江村[藁江村・金見村]、藤江村(現・福山市) 浦崎村、百島村(現・尾道市) 横島村、田島村、千年村[常石村・草深村・能登原村]、山南村[上山南村・中山南村・下
の中本町、隈1丁目、2丁目を2重の堀と土塁で囲み、要所に木戸門を設けて朝夕に開閉していたといわれるが、安永7年(1778年)の大火以降に土塁などは除去されたといわれている。 江戸時代には商人町として賑わいを見せる。三隈川河畔では、天和年間(1682年頃)から杉丸太の筏流しが始まり、木材関係の
地形的には半島の東部が海岸から切り立ち西に向かって徐々に低くなっており、殆どが山で平地はあまりない。かつては東西南の三方を海に囲まれ瀬戸内海に突出していたが、東北部は江戸時代から芦田川の流路改修や干拓が進められ現在は平野部と連続している。ただし、この間を芦田川が横切り山並みも特に峻険であるため地勢的には平野部との分断は今日も変わりはない
石余、年貢は定免制で米171石余、水車1・紺屋1。 『神戸市史』によれば明治2年(1869年)頃、農業の他は男は素麺職・線香職・水車稼ぎ・酒造稼ぎ・柴薪刈、女は木綿織・筵折に従事。 字名に土居、射矢の上、御所坂、二の丸、二の丸堀、本丸東の根、本丸の辻、三の丸、高城など城郭に因むものが残っていた。