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刀や馬具の紋 足利尊氏否定説 刀や馬具に描かれている輪違の紋が、足利家ではなく高家の家紋であり、像主は高師直、もしくは子師詮、師冬である。 足利尊氏肯定説 戦後、肖像画のレントゲン撮影による科学的な研究がされ、輪違紋と見られる箇所が江戸時代の補修で新たに描き加えられたものと判明した。 また、高家の紋
り、逸名の持氏正妻の実子・義久の自害後、奉公衆簗田氏が生んだ安王丸が結城合戦の主将に擁立され(春王丸の実際の母親は奉公衆以下の家格出身の中臈もしくは下臈と推測)、安王丸が春王丸と共に殺害されると残された持氏の子でもっとも母親の出自が高かった成氏が持氏の後継者として擁立されたと推測している。
東における武家の棟梁たる地位の維持に努めようとしたが、その路線が裏目に出て自身が息子達と対立する事態に陥ってしまった。その間に、後に古河公方家を没落させることになる後北条氏が関東に着々と進出してくるのである。 政氏期は、歴代古河公方の中でも文化面の活動が最も充実していた。
足利 基氏(あしかが もとうじ)は、南北朝時代の武将。初代鎌倉公方(在職:正平4年/貞和5年9月9日(1349年10月21日) - 正平22年/貞治6年4月26日(1367年5月25日))。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。