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がせた。 建安13年(208年)、劉表が亡くなると後継者の劉琮を説得し、曹操に帰服させた。曹操から招かれて丞相掾となり、関内侯の爵位を授けられた。軍師祭酒を経て、建安18年(213年)に曹操が魏公に即くと、侍中に任命された。 優れた記憶力を持ち、碁盤の石が散らば
た。しかしこれらの行動は、かえって孫覇や楊竺らの反発を買い、逆に彼らから讒言されることとなった。 孫権は吾粲らの行動に憤り、陸遜に譴責の書状を送るとともに、吾粲を獄に下し処刑した(陸遜伝)。 陳寿は「困難な時勢の中、正義を守ろうとして身を滅ぼした。悲しいことである」と評している。
た。劉粲はその罪状を数え上げた上で処刑され、隠帝と諡された。劉元公を始め、劉氏一族は老若男女問わず皆殺しとなった。 宰相(丞相・相国)となってからは威福をほしいままにし、忠賢な者を遠ざけて奸佞な者を側近とした。感情の赴くままに厳しくふるまい、恩恵を施こさず、諫言があっても受け容れなかった。また、宮室
業をせず、もっぱら略奪をこととした。やがて軍中が飢え、死者が出るようになると、子どもを拉致しては蒸して食べるようになった。やがて朱粲の徒はカニバリズムの味を覚えてむしろ奨励するようになり、婦人や子どもを煮ては食べ、また税は諸城が痩せ細るまでに重く課した。隋の著作佐郎の陸従典や通事舎人の顔愍楚(顔之