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兼盛(たいら の かねもり)は、平安時代中期の貴族・歌人。臣籍降下前は兼盛王と称す。光孝平氏、筑前守・平篤望または大宰大弐・平篤行の三男。官位は従五位上・駿河守。三十六歌仙の一人。 『尊卑分脈』によると、光孝天皇の玄孫として以下の系譜となっている。 光孝天皇-是忠親王-興我王-平篤行-平兼盛
平 常兼(たいら の つねかね)は、平安時代中期の武士。千葉氏初代当主。 平常長の子。下総国千葉郷に因んで千葉大介と号したとされ、これが千葉氏の始まりである。 後三年の役に父・常長と共に従事して功を立てたとされる。妻で常重の母である鳥海忠衡の娘は、この戦いの過程で結婚した可能性が高い(鳥海忠衡の出自
官符が出された国々の実質統治者は平一族当人らである為に、何の効果もなかったのではないかといわれている。良兼は12月14日(938年1月17日)将門の駈使である丈部子春丸を買収して石井の営所の内情を探り夜襲をかけるも察知され逆襲を受け敗走、これ以降良兼の勢力は衰退し、天慶2年(939年)6月に病死した。
盛子が准母となっていた高倉天皇の権威を盾に基房の抵抗を封じ込めると同時に、基通が成長して関白・氏長者になるまでの時間稼ぎと見られる。 この措置に不満を募らせた松殿基房は、氏長者として遺領相続の権利があることを後白河院に訴える。『愚管抄』には白川殿ウセテ一ノ所ノ家領文書ノ事ナド松殿申サルル旨