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孝恭王については、崔致遠の文集の中に光哲3年(887年)7月5日に国王(憲康王)が亡くなったが(『三国史記』では886年)、甥の嶢はまだ産まれて1年もたっていないので仲兄の晃(定康王)が臨時に国を治めたとあるので885年から887年の間の産まれと推定できる。 897年、孝恭王は王位についたものの新羅は大規模な内乱(後
ン・テムルの皇后)の実家)を討ち、次に軍備を増強した。李成桂をはじめとする武人を登用し、元に奪われた領地の奪回を果たした。また100年以上続いた胡服弁髪令をも廃止した。王妃魯国大長公主を愛し、他の妃達はただ継嗣を得るために娶ったが、形式上の婚姻だったという。 しかし、治世後半は中国から紅賊(紅巾軍)
恵恭王(けいきょうおう、758年 - 780年)は、新羅の第36代の王(在位:765年 - 780年)であり、姓は金、諱は乾運。先代の景徳王の嫡男であり、母は舒弗邯(1等官)の金義忠の娘の満月夫人(景垂王后)。王妃は2人あって、先妃は伊飡(2等官)の金維誠の娘の新宝王后、次妃は伊飡の金璋の娘。76
恭譲王(コンヤンワン、きょうじょうおう、1345年3月9日 - 1394年5月17日)は、高麗の第34代国王である(在位:1389年 - 1392年)。第20代神宗の子の襄陽公王恕の六代の孫。諡号は恭譲大王。はじめ定昌府院君に封じられていたが、李成桂(朝鮮の太祖)により高麗王