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幕府は5回に及ぶ評定の結果、寛政4年(1792年)に藩主・著朝の隠居と嗣子として三河西尾藩主・松平乗祐の七男・堀直起を擁立すること、領地5000石の半知替え処分が下された。このとき、信濃国高井郡六川村に六川陣屋が設けられている。 その後、藩内では藩政改革なども行なわれた。しかし嘉永4年(1851年)
刈谷藩(かりやはん)は、三河国に存在した藩の一つ。江戸時代の名称は刈屋藩。藩庁は刈谷城(亀城。現在の愛知県刈谷市城町)に置かれた。 戦国時代、刈谷の地は徳川家康の生母・於大の方の実家である水野氏が支配していた。於大の父・水野忠政は松平氏とともに今川方の豪族であったが、刈谷城を築城し、緒川から刈谷
は本来は陪臣の扱いであるが、新谷藩は幕府より大名と認められた全国唯一の例である。 寛永9年(1632年)、中江藤樹は当藩に任地替えとなったが、母への孝養を理由に故郷の近江国へ脱藩した。 江戸時代後期になると、肱川の氾濫による水害や火災に見まわれ、藩財政は困窮を極め、一時は大洲藩が藩政を執行した。明治初頭での実高は9
守谷藩(もりやはん)は、下総国相馬郡守谷(現在の茨城県守谷市)を居所として、徳川家康の関東入部から江戸時代前期まで存在した藩。土岐定政(菅沼定政)が1万石で入封し、1617年に2代目の土岐定義が摂津国高槻藩に移封された。その後、3代目の土岐頼行が1619年に領地を相馬郡内1万石に移されているが、頼行