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延文の初めに南朝に降伏するがのちに北朝に復帰する。足利義詮からの信頼を受け、九州探題の斯波氏経とともに菊池氏の猛撃を高崎山城で防いだ。延文4年/正平14年(1359年)、筑後川の戦いに北朝方として従軍するが征西大将軍の懐良親王を擁する菊池武光に大敗を喫して大友氏
が京都で急死したため、正式に当主となったが、幼少だったために兄・貞載の補佐を受けた。 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて九州に落ち延びてきたときは、尊氏の再挙に貢献した。この頃がちょうど元服の時期で尊氏から「氏」の字を与えられて氏泰と名乗ったものとみられる。また、尊氏が九州に滞在していた建武3年(1336
た。江戸時代の友野氏は駿府で呉服商を主な業務とし、当主は代々與左衛門(与左衛門)を称した。明暦2年(1656年)、当時の與左衛門は安倍川の治水と新田開発に私財を投じ、後に与左衛門新田と呼ばれるが、洪水対策などで私財を使い果たし、家運が傾いた
その後、和歌に親しみながら余生を送り、歌集『不学而集』『氏興詠草』を編纂している。 貞享4年(1687年)に66歳で死去、大窪山墓地に東奥散士友松氏興之墓と書かれた墓碑が残されている。没後、「忠彦霊社」の神号が贈られて、土津神社の一郭に末社が創建されている。