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建安2年(197年)、秘密裏に袁術の下を脱し、翌年に郷里の陳郡まで戻った。その後、司空の曹操に招聘され、掾属(属官)となる。曹操はしばしば掾属に杖罰を加えていたが、死んでも杖罰を受けまいと毒薬を常備していた何夔は、この被害を被らなかった。 地方に出て城父県令、のち長広太守となる。同地では豪族の管承が狼藉を働い
るものであったことを認識させてくれるだけでなく、宋代の音楽を今に伝える貴重な資料になっている。 生没年ははっきりしないが、陳思『白石道人年譜』では探春慢の序の記述などから紹興28年(1158年)生・紹定4年(1231年)没と推測している。楊蔭瀏によるとは約1155年生・1221年没とする。
に違ってはなりません。そこで、すぐさま史官に吉日を選ばせ、礼儀を備えるべきです。昧死して皇帝の尊号を称する事を申し上げますと勧めた。石虎は下書して過ぎたる褒美が繰り返され、猥りに推逼されているように見える。増えるを見るに恥じ入るばかりであり、我の望む所ではない。速やかにその議を止めるように
は四川等処行中書省に属し、奉節・巫山の2県と大寧州・雲陽州・万州・開州・梁山州・達州・施州の7州を管轄した。 1371年(洪武4年)、明により夔州路は夔州府と改められた。夔州府は四川省に属し、直属の奉節・巫山・大昌・大寧・雲陽・万・開・梁山・新寧・建始の10県と達州に属する東郷・太平の2県、合わせて1州12県を管轄した。