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る遺構もあることから、それ以前から楚がこの地を郢と呼び、首都を置いていた可能性も指摘される。この遺跡は、現在荊州市の行政区画内にあり、その城壁はおしなべて方形で、北3547m、西3751m、東3706m、南4502m、付近の八嶺山や紀山には当時の楚の王族の墓も散見される。
隋代が成立すると当初は3郡6県を管轄した。583年(開皇3年)、唐州遂安郡が廃止され、郢州に統合された。605年(大業元年)、基州及び鄀州が廃止され、基州は郢州に統合され、鄀州の楽郷県・武山県は郢州に移管された。607年(大業3年)、郡制施行に伴い竟陵郡と改称され、下部に8県を管轄した。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
とをせず、長安に報告した。漢の武帝は大行の王恢を豫章から進軍させ、大農の韓安国を会稽から進軍させた。閩越王騶郢は軍を発して要害を守らせ、漢軍を迎撃しようとした。騶郢の弟の騶余善は、大臣や一族たちと謀って騶郢を殺害し、その首級を王恢のもとに届けて降伏した。 ^ 『史記集解』東越列伝所引徐広は騶はまたは駱とも作るという。
郢曲抄は治承年間(1177年 - 1181年)頃成立といわれる著者未詳の音楽書。神楽や催馬楽の秘伝、また、今様や片下、足柄、田歌などの由来や歌い方が記されている。 ^ 早歌を宴曲とも表記する場合もみられるが、宴曲は、本来は遊宴の場において歌われる曲という意味である。豊永(2010)p.48 ^