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皇年間、并州司馬に累進した。604年(仁寿4年)、漢王楊諒が挙兵すると、その部将の劉建が井陘を攻撃した。張祥は官軍に属して抗戦したが、劉建が城下に火をかけたため、民家が火災を起こした。このとき張祥が城側の西王母廟に泣いて降雨を祈願すると、廟上に雲が起こり、まもなく驟雨が降って、火は消し止められたと
皇太子派を粛清する計画に手を貸した。太康5年(1079年)1月、道宗は孝傑を狄仁傑にたとえて、仁傑の名を賜った。太康6年(1080年)、道宗も孝傑の姦佞に気づいて、武定軍節度使として左遷した。塩の密売と詔書の改竄の罪を問われて、爵位を削られ、安粛州に流された。数年して帰京した。太安年間、郷里で死んだ
鷹揚かつ率直な性格で、華やかで実のないことを好まなかった。いつも穀皮の頭巾を被り、ガマの草履を履いて、手にはシュロ皮の麈尾を持っていた。寒食散を服用し、真冬に石の上で寝ることができた。広く書籍を渉猟して、とくに仏教典籍に詳しかった。談論を得意とし、隷書に巧みで、多くの芸
〔性(サガ)と同源〕