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正平7年(1352年)3月遠山景房が武功により安房国に領地を与えられた。(券書藪) 明徳元年(1390年)遠山景房の子の遠山頼景が足利義満からの下文により地頭職となる。(券書藪) 明徳3年(1392年)、北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明
庫を城代としてまた信濃に居た森長可が撤退する時に。遠山友忠が千旦林で暗殺を企てていたが、息子の木曾義利を人質を取られていた木曾義昌から手を出さぬようにと懇願された事で結局は手出しはせず、森軍は無事に可児郡の兼山城へ辿りつき、その後加茂郡と郡上郡を制圧した。 天正11年(1583年)兼山城主の森長可
方の一勢力として各地を転戦したり、宮方であった隣国の飛騨国司姉小路家と争ったが、『太平記』『遠山家譜』によると岩村城主の遠山加藤光直の弟で苗木城主であった遠山五郎景直土岐頼遠と領土争いの訴訟があって城を追われ、宮方の新田義貞軍に加わっていたという。 足利尊氏に従って各地を転戦した明知遠山氏の景房(
つぐむね)の子であるともいわれる。なお、諏訪氏の惣領は頼継と続宗の弟にあたる諏訪信継(のぶつぐ、信嗣とも、直頼の父)の系統が継承している(頼継・継宗・信継はいずれも諏訪時継の子である)。 諏訪氏の分家である高遠氏は、諏訪氏惣領職を巡ってしばしば宗家と戦い、高遠頼継の