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忠政は兄長可と同じ地へ入領することをかねてより希望しており、兄の遺恨を晴らすのを心待ちにしていたから待城と名付けた、と伝えられている。3月に入城した忠政は入領してすぐに天正壬午の乱の際に兄を裏切った高坂昌元(高坂氏)の一門を探し出して磔に架けるなどの措置を行っている。 長野市立博物館編集・発行
mほどしか無い。一番標高が高い一重山(南城)が本城にあたり、狭い鞍部で仕切られた南城が支城に相当する。このような一つの城の内部に独立した別城郭を持つ構造を一城別郭と呼ぶ。 同じ有明山の尾根上部には古墳時代の前方後円墳の有明山将軍塚古墳があり、隣の尾根には県内最大級の森将軍塚古墳がある。また狭い平
磨櫓で、そこから少し進み、直角に曲がると北面して頬当御門(頬当門)があり、侵入者が直進できない構造となっている。本丸北口は埋門と言い、九間櫓と唐人櫓に挟まれた低い通路を通って裏桝形門(廊下橋門)に至る。これは北の丸とを結ぶ搦手口で、廊下橋が架けられてい
大坂城代(おおさかじょうだい)は、江戸幕府の役職の一つ。将軍直属で有力な譜代大名が任じられ、大坂城主である将軍に代わり大坂城を預かった。 本記事では、大坂城代を補佐する大坂定番2名、京橋口定番(きょうばしぐちじょうばん)と玉造口定番(たまつくりぐちじょうばん)についても記述する。