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られた。永安2年(529年)、元顥を討ち、烏洛県男に封ぜられた。普泰元年(531年)、高歓の起兵に従って、都督となった。中興2年(532年)、高歓が鄴を平定し、韓陵で爾朱氏を破るのに、蔡儁はいずれも戦功を挙げた。太昌元年(同年)、孝武帝が即位すると、蔡儁は済州刺史として出向した。胡遷ら
におもむき、邙山にとどまった。高歓は文武百官から士庶までを召し出して爾朱氏は暴虐で、天を玩弄するのも常であったので、わたしは信都で起兵して、罪人を斬ったものである。いま賢君を推戴して北魏の時代をさかんにするには、誰を社稷の主とすればよいだろうかと訊ねた。綦儁は「広陵王元恭は爾朱氏が立てた皇帝で
けられたのは240年となった。魏は、帯方太守の弓遵・建中校尉の梯儁などを倭国に遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、并びに詔を齎し、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を賜った。 ^ a b c 藤井勝彦『邪馬台国 古代日本誕生の謎』新紀元社、2012年5月23日、354頁。ISBN 4775310259。
冀 儁(き しゅん、生没年不詳)は、中国の南北朝時代の書家・官僚。字は僧儁。本貫は太原郡陽邑県。 落ち着いた性格で、隷書を得意とし、特に模写に巧みだった。532年(太昌元年)、賀抜岳の下で墨曹参軍となった。534年(永熙3年)、賀抜岳が侯莫陳悦に殺害されると、冀儁