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8年から1963年インド留学、1963年にアジア・アフリカ語学院専任講師。1965年に富山国際大学に移籍、2004年まで同大学人文学部教授。日印サルボダヤ交友会会長、朝日カルチャーセンター講師。専攻は南アジア地域研究、特にヒンディー語学、ヒンディー文学および口承文芸。インド各地の農村で、民話収集を行った。
第二次ソロモン海戦において、機動部隊の前衛部隊指揮官を務めたが、夜戦に備えて前進命令が出たにもかかわらず命令に従わずに督戦され、また南太平洋海戦でも敵から遠ざかる避退行動を続けて督戦命令を受けるなど、消極的な指揮が問題となった。1942年(昭和17年)11月1日海軍中将に昇進し、1942年11月12
するもの)が大多数を占めていた当時の状況においては例外的な、原則的・道義的な征韓不可の主張が現れている。 すなわちここで吉岡は、一方ではしばしば仮病など遁辞を弄して会見を避ける朝鮮側の不誠実な態度を非難しながらも、世間で噂されるように彼らが「我国書ヲ裂キ(中略)驕慢無礼ノ答書」を
老院議官に復帰した。政治的には佐々木高行や谷干城、土方久元と同じ天皇親政・保守強硬派(中正派)に属していたが、藩閥主導の政治を変えるためには土佐の保守派と自由民権派が手を携えるべきであると考えて両者の提携に尽力したが、志半ばで病死した。 1886年(明治19年)11月16日 - 正四位 1887年(明治20年)7月3日