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その跡を嫡男の勝守が継いだが、元禄11年(1698年)9月に江戸城内で自殺している。このときのことを『廃絶禄』では、9月15日、26歳で失心。厠にて自害す。よって領地を収らるとある。こうして徳美藩は4代をもって改易となり、その所領は没収となった。 甲斐では康勝の隠居した寛永13年以降、年番制による統治が行われ、寛文元年(1661年)に甲府藩が設置される。
元靖 就擧 就慶 (幼名:庸) 徳山藩家臣団は家老、出頭、中座、馬廻、馬廻格、徒格など、に別れていました。 家老家: 粟屋主水 (435石) 奈古屋雅楽 (500石) 福間五郎兵衛 (600石) 鳥羽縫殿 (400石) 粟屋靫負 (485石) 出頭家: 杉山三郎左衞門 (300石) 森孫次郎 (250石)
最期の藩主蜂須賀茂韶の孫・蜂須賀年子著『大名華族』(1957年、三笠書房。徳島新聞連載)には黒田家から教わった『火伏せのまじない札』の塗り込められた『火伏せの板戸』の話が10代藩主・蜂須賀重喜の頃の伝承として出てくる。これによると、蜂須賀家は「江戸時代初期に黒田家からまじない札を教わった」とある。
が、万延元年(1860年)閏3月24日、城内三ノ丸旧内藤蔵人の屋敷に学問所 進徳館を開いた。易経の君子進徳修業、忠信所以進徳也(君子は徳に進み業を修む。忠信は徳を進むる所以なり)に因む。 文武総裁に岡野小平治、師範役に海野幸成、中村元起を任命した。頼直は創立に際し「実学専一ニ心掛クベキ」と諭達し