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かったため、叔堅は皇太后に上申して太子舎人の司馬申を蕭摩訶のもとに派遣し、陳叔陵の反乱を討つよう命じた。その日のうちに蕭摩訶は陳叔陵の部将の戴温や譚騏驎らを捕らえて台城に送り、尚書閤下で斬らせ、その首級を持って東府城の周りを巡らせた。陳叔陵は恐慌を起こして、自らの妻妾を殺し、部下数百人を率いて新林に
14年(582年)1月、岳陽王に封じられた。至徳4年(586年)、侍中・智武将軍・丹陽尹に任じられた。叔慎は衡陽王陳伯信や新蔡王陳叔斉とともに後主に陪侍して文章や詩を作った。禎明元年(587年)1月、使持節・都督湘衡桂武四州諸軍事・智武将軍・湘州刺史として出向した。
陳叔陵(ちんしゅくりょう、? - 太建14年1月11日(582年2月18日))は、中国の南北朝時代陳の皇族。第4代皇帝・宣帝の次男。字は子嵩。生母は彭貴嬪。 光大2年(568年)、康楽県侯に封じられる。翌太建元年(569年)に揚州刺史・始興王に昇格した。 彼は厳格かつ残忍な性格で、自分の領土で全ての
叔宝の母が亡くなると、来護児は使いを立ててこれを弔問した。役人がいぶかしく思って士卒が死んでも、将軍は弔問することがありませんでしたのに、今ひとり叔宝を弔問するのはなぜですか?と尋ねた。来護児は「あいつには武才があり、志節もそなわっている。長く卑賎な身分ではおるまい」と答えた。