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いう旅僧がおり、自らの氏素性を周囲に明かさないでいたのであるが、天正5年12月に隆信が千々石直員(子の澄員の間違いか?)の城を攻める場に同行した際、龍造寺勢が崩れかかると自ら長刀を掴んで敵勢に討ち入り、我は松永弾正(久秀)が弟なるぞ。出家とて侮るなかれと発して、奮戦し討ち死にしたとある。 松永久秀【一
将軍家とも血縁が近く有力な勢力を有していた今川氏に白羽の矢が立ったものだった。 筑前大宰府に拠点を置いた征西府に対し、幕府方の仲秋は北朝方の豪族が多い肥前国松浦に入部、松浦党の一門である伊万里貞・山代栄、龍造寺氏の一族である龍造寺家治をはじめ多久宗国、高木家直、後藤資明、馬渡経俊、安富直安、少弐一門
新見正吉と、その子正勝が、天正年間に徳川家康の配下となり、幕末までに8家が旗本として存続した。 主な子孫に、甲府徳川家家老で江戸幕府六代将軍徳川家宣の養父新見正信、八十翁疇昔物語の著者新見正朝、長崎奉行や勘定奉行を務めた新見正榮、新見正路日記、新見文書の著者新見正路、その子で幕末の外国奉行新見正興、最後の飛騨郡代新見内膳などがいる。
安房里見氏(あわさとみし)は、戦国時代に安房国を掌握、房総半島に勢力を拡大し、戦国大名化した氏族である。関東副帥(関東管領の異称)もしくは「関東副将軍」を自称した。 安房里見氏初代・里見義実は、結城合戦で討死した里見家基の子息とされる人物で、安房国に移り安西氏を追放して領主と