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桜間助成遠 :応永年間、讃岐国より三河国渥美郡牟呂津に着船という。牧野氏先祖と伝える。文正元年(1466年)丙戌4月22日没、墓は豊川市牧野町柳貝津にあり。法名・福昌院殿柏樹明全大居士。牧野氏先祖が創建と伝える法名中の院号と同名の禅寺・福昌院があったという。 和田野重成 :民部大
た場合の事を考えればこの時点で平家方に行く事は考え難い。また、三女の夫・江間小四郎は頼朝に殺された。 他方、祐経は早期に頼朝に味方したことから、その君寵が厚く、その反面、数多くの御家人から妬まれた。そして、祐経は、成長した祐泰の遺児である一萬・箱王兄弟改め曾我祐成・曾我時致によって父の仇として討たれ
山時代の湯河直春も湯河と自署している。近世になると「湯川」がよく見られた。 名字の読みについて、近代以降は「ゆかわ」が多いが、『東山殿時代大名外様附』で「湯河安房守」に「ユノカワ」のルビが振られ、馬場通定や畠山稙長の書状の宛所として「ゆの川式部殿」「ゆのかわしきふ大輔殿」と書かれるなど、中世には「ゆのかわ」と読んだ例が見られる。
での武蔵国武士団動員に際し、武蔵国衆は幕府に対して変心する可能性がある事が示唆されており、幕府はかつて軍事指揮権が付随していた総検校職を伝統的在庁有力者である河越氏に再任することで協調し、武蔵武士団の再編成と支配に臨もうとしたと考えられる。同時に、本来秩父氏および河越氏の家督であった総検校職を、